がらくた

双極性障害と、本と映画と、日常と、小説ポエム書いて非日常へと。

安岡章太郎「文士の友情-吉岡淳之介のことなど」の感想

 

文士の友情: 吉行淳之介の事など (新潮文庫)

文士の友情: 吉行淳之介の事など (新潮文庫)

 

 

中学生のころ、国語の時間で安岡章太郎の「サーカスの馬」という短編小説を読んで当時から衝撃を受けた。

国語や道徳の時間でやる物語の主人公はみな優等生だったのだが、「サーカスの馬」の僕はとても情けなくて劣等生だった。

優等生ばかりが出てくる学校の授業にうんざりしていた私は、それはとても親近感がわいた。

どうやら、私はもう、中学生時代から自分に劣等感を感じていたみたいだ。

その「サーカスの馬」の僕がサーカスにいる馬を見て、はっきりと書いてはいないのだが、私の受けた印象は、劣等生がサーカスの馬から希望をもらうといった内容だった。

ふと考えてみれば、最近少しずつ私が書き始めている小説も、塞ぎ込んでいる主人公が希望を貰うというオチになっている気がする。

 

それから、安岡章太郎の本はたくさん読んだ。

どれも主人公はみんなだらしなくて、情けなくて、どうしようもない人たちばかりなのが、なんだか慰められているようで好きだった。

今回の本は2013年1月に亡くなってしまった安岡章太郎の未発表のエッセイが載っている遺作だと思っている。

 

まず、このブログにも書いてある通り、鬱にずっとなってしまっていて、なかなか内容に集中できなかった部分がある。

特に対談のページは、戦争を体験した者ではないと分かり合えない内容でかなり読み辛かった。

しかし、前半のエッセイは、以前ブログにも書いたように、勝手に私は共感をしてしまった。

 

mongumi.hatenadiary.jp

 

 

戦争中と平和な現在は、結局、何も変わっていないのだなと思った。

また、安岡章太郎の口ぐせは「ああ、死にたいな」だったらしい。

これは現代でも、Twitterを見るとよく見かける。

結局、日本人は死にたい民族なのではないのかと思う。

どんな時代であれ、どんな状況であっても、どこかで死を求めているのではないのかと思う。

それを否定する風潮ではあるが、それを受け入れていいのだなと思う。

私は双極性障害で、何度も死にたいなと思ったことがあるのだが、それも正しいのだと思う。

そんなことを他人に言ってしまうと、たちまち否定されてしまうが、たぶん、そういう民族なのだから、死を求めているのが当然なのかもしれない。

もちろん、それは今の言葉で言うなら「死ぬ死ぬ詐欺」と言われているもので、実際に行動を移すかどうかは別のものではあるが…。

 

そして、安岡章太郎は70歳を目前にカトリック教徒になった。

そのことについての対談もあった。

神をいつのまにか私は信じなくなってしまった。

神がいるならば、双極性障害でこんなに人生がめちゃくちゃになることなんてなかったのにと思うようになってしまったからだ。

しかし、安岡章太郎は、戦争で悲惨な体験をしている。

きっと目をつぶりたくなるような景色を見てきたと思う。

きっと、神なんていないだろうと思ったにちがいない。

でも、神を求めている。

祈ることは、どういう意味なのだろうかと考えてしまう。

祈ることは「幸せにしてください」という意味ではないのかもしれない。

特に何の意味もなく、祈るという行為だけで、どこか意味があるのかもしれない。

 

そして、こんなことを書くと私のマヌケさが露呈されてしまうのだが、安岡章太郎は自分が劣等生と称してはいるが、やはり考えていることは鋭いなと思った。とても頭の良い人なのだと思った。

それなのに、いつも出てくる登場人物はどこか情けなくて、惨めで、どうしようもない。

でも、劣等生たちの気持ちを代弁してくれる表現や文章能力があるからこそ、やはり頭が良いのだなと思ってしまう。

父親に小説を書きたいと言ったら、「頭が良くないとできないものだぞ」と言われたことを思い出す。

 

久しぶりに「サーカスの馬」を読みたくなった。