がらくた

双極性障害と、本と映画と、日常と、小説ポエム書いて非日常へと。

怖い! 〜九月十九日までのこと2

 

「ちがう、そうじゃない。だからこう言っているじゃないか」
バキュームの音が私の耳に激しく響く。
患者はバキュームの先端に舌をぴったりとつける。その瞬間に音はぴたりと止む。
一瞬静寂のように感じた。と思った次の瞬間、父親の低い声。
「音が出なかったらだめなんだ」
私は患者への気遣いなんて無視してバキュームを乱暴に患者の舌から離す。
再びバキュームの音がする。
「ちがう、何度言ったら分かるんだ」
そんなことを言われても分からない。
根貼の患者だった。バキュームは歯医者である父親の助手の元何度もしたことがあるが、根貼の患者に対しての助手は初めてだった。
バキュームの使い方が分からない…ましてや、父親はバキュームでどうしていいか分からない。何を求めているのか分からない。
決して怒鳴ったりなどはしてはいないが、イライラとしているのがひしひしと肌に伝わる
私はどうしていいか分からないのと共に、根貼の患者の助手は初めてなんだからもっとちゃんと教えてほしいと怒りが込み上げてきた。
なぜ、私が怒られなければいけないのだ。
そのピリピリとした雰囲気を感じてか、その日は雨が降って涼しいはずなのに、患者の額からは汗の粒がボツボツと出ていた。
たぶん患者も怖がっているような気がする。
ともかく、なんでちゃんと教えてくれないのにこうも怒られなきゃいけないのだと怒りで、頭に全身の血が集まって、得体の知れないものでパンパンになってしまった。
私は怒りでどうにかなってしまいそうな自分をなんとか抑えるのが精一杯で、その後仕事の後片付けをした。
「夕飯はどうする?」
白衣から普段着に着替えた父親がいつもの口調で私にこう尋ねた。
いつも通りの父親に戻ったことで、きっと本人の中ではあれは怒っているという認識はなかったのだろうと思った。
「いらない。お腹空かないから」
私は抑えようとしつつも、怒りは溢れてしまったような態度で言ったと思う。
私は逃げるように仕事場から出た。
途中でタバコを吸う。ひと呼吸してから、イライラが自分の中では異常に感じたのでいつも持ち歩いているジプレキサを飲んだ。
こういうとき、ひとり暮らしはいい。
実家に住んでいると、怒りの対象である父親と顔を合わせて夕飯を食べなくてはいけない。
母親が作ったさんまの塩焼きも食べたくなかった。その日はどちらかというと、お肉を食べたい気分だった。
どうやら次の日は休みを貰った。そして明後日は休診日だ。
二連休になった。この二日間でこの怒りをリセットしようと思った。大丈夫、二日あれば忘れているだろう。そんなふうに思っていた。

それから次の日は自分のペースで休日を過ごし、特に変わったことはなかった。ところが、異変は次の日に起きた。どうやら仕事仲間の助手の人が体調を崩し、次の日は絶対に来てほしいと言われた。明日は絶対に行かなければならないと思った。ところが次の日の夕方、急に不安が襲った。早めのお風呂に入り、着替えようと部屋に戻ると、陽はすっかり落ち、世界が濃い青に覆われていた。電気は消したままだったが、部屋に置いてある家具が黒い塊のように見えた。

怖い。また、怒られるんじゃないか。

私は小さいときから怒られるのがとても怖かった。
怒られるのが怖くて、一生懸命勉強をし、親の言うことを聞いてきた。全ては怒られないために。
大人になって働き始めてからは、怒られたり注意されたりするのがとても嫌で、そういうことを言われないようにとても気を遣った。今にしてみれば、その気の遣い方は自分でも想像しないほどに追い詰めていた。

怒られるのが怖い。怒られるのが怖い。

気がつくと、私は怒られないように平気で嘘をつくようになった。
その嘘の内容は、きっと他人からすると、そんな嘘をつくくらいなら怒られたほうがいいと思うのだろう。でも、私は怒られない為なら何でもするという気持ちだった。

こんなふうに怒られることを極端に怖がってしまうのは、アダルトチャイルドだということが去年の夏に分かった。
そのときも電気はつけず、雨が激しく降っていて雨音が聞こえた。目の前には茶色のスープに箸を突っ込んだカップ麺。そのときも濃い青色だった。

……。
私はその晩、眠れなかった。
明日は絶対に仕事に行かなければならない。
睡眠が足りていないととても仕事ができる状態ではないと自分でもよく知っているから、眠らなくてはだめだと思った。……でもまぁ、だめなら一睡もしないで行けばいいか。
眠らなきゃという気持ちと、眠らなくていいだろうという気持ちが交互に訪れていた。
そして、私は起きなくてはいけない時間の一時間前にやっと眠ったと思う。

時間通りにケータイのアラームが鳴った。
私はアラームを止めた。でも、身体がそれ以上動くことを拒んだ。動けない……。
朝食を摂るのを諦めてもう三十分だけ寝ていようと思った。
瞬きをしたほんの一瞬でアラームが鳴ったように感じる。ダメだ……起きれない。でも、昨日の父親からの連絡で、もし来ることができなかったら連絡をしなさいと言われた。普通だったらここで連絡をすればいいのだろう。でも、その時の私は本当に鬱状態で連絡をして怒られたらどうしよう。役立たず、無責任と言われるのが怖かった。父親からすればこの日はどうしても来て欲しい日だったので、珍しく朝の六時半に電話が鳴った。
だめだ……怖い。何を言われるのだろう。怖い……。
こうして私は、ケータイの電源を切ってしまった。

そこから私の引きこもりの日々が始まった。