祭りの後
やけに気持ちがザワザワしている。
先週、久しぶりに馬鹿みたいに騒いだ。
暗い話なんて一切せずに、ただただ下らない下ネタを話したり、子供のようにはしゃいで真剣に釣りをした。
私の頭は何も考えずにただただ無邪気にいれた。
それがとても楽しかったので、その余韻がすごく、今は祭りの後のようになんだか、周りも気持ちもしーんとしてしまって寂しい。
でも、この歳になっていい加減に分かってきたのは、あの場所にいた全員が、あの場所にいたときのように何も考えずに、無邪気でいつもいるわけではないと分かっている。
みんな、必ずどこかしらに寂しさや苦しみを抱えている。
あの騒ぎから、離れた今、みんなそれぞれの、浄化できぬ寂しさを抱えているのだと思う。
でも、それをあの騒ぎでおくびにも出さないのが好きだった。
それを越えるために、みんな敢えて出さないのだと思う。
それが私にはとても心地よかった。
最近はネガティブな人には近づかないようにしている。
まぁ、こんなブログを書いているのだから、お前も暗いだろうとツッコまれてしまうのだが、ネガティブは伝染するなと思っている。
私は元々ネガティブだったのに、病気になってしまってから更にネガティブに輪をかけるような性格になってしまった。
今の私のネガティブさは性格のものではなく、病気がネガティブにさせているのだと言いたいのだが、そんなことをいちいち説明している時間はないので、世間は私をこんなふうにネガティブな人間なのだと定めてしまう。
すると、ネガティブな人間にはネガティブな人間が集まる。
そしてそこでネガティブな話ばかりする。
もちろんそれは悪いことばかりではない。
お互いの傷を慰め合うことができる。
私が困った性格をしているのは、落ち込んでいる人の話を聞いて、慰めたり、解決方法を一緒に考えたりする。
でも、ネガティブな人は行動には出ない。人の話を聞かない。
共依存でもある私は誰かの役に立ちたいと、自分を押し殺してもその人に尽くしてしまうところがあって、かなり一生懸命にその人に親身にはなっていたが、最近になってやっとそんなことまでする必要もないなと思う。
共依存になっていない人からしたら、どうしてそんなに簡単なことができないのかと疑問に思うだろうし、きっと私の頭が悪いと思うのかもしれない。
これを言葉で理解させるのはかなり難しい。
本当にそうなってみないと分からないものである。
話がだいぶそれてしまった。
友だちとは何だろうと最近よく考える。
まだこれにははっきりと答えは出せてはいないが、一緒にいて楽しい人だと思う。
そして、その一緒にいて楽しいのは何なのかと考えると、無邪気にいることができる人なのだと思う。
そして、その無邪気にいれる条件にネガティブな人ではないということがあるのだろうなと、雲の覆われ、星が全く見えない夜空を睨むように眺めながら思う。
それにしても、今年は暖冬と言われているが、今年の寒さは身体にとても身に堪える。