取捨して洗濯する
今さらながらSNS断ちをしてみようかと思う。
特にTwitter。
SNSに対する悪い部分は世間で指摘されているように納得いく部分もあるし、もちろんSNSで知らなかったことを知ることができたから、今でもSNSが一概に悪いものだとは思っていない。
ただ、Twitterでは文字制限があり、自分の感情を150文字以内に納めることに限界を感じてしまったからだ。
これからは、文字制限のないこのブログで自分の気持ちを思う存分に書いてみてはどうかと思い始めた。
もちろん、文字制限に捕らわれないから、どこまでも文章を書いてしまう。
このブログを読んでくれる稀有な(?)人も大変だが、実は長文を書くほうも大変だったりする。
Twitterは150文字で収めなければいけないから、それは却って手軽で体力を使わない。
長文を書くとなると、これでも一応どんなふうに文章を構成して…などと書くことを頭の中でまとめているので、Twitterよりもブログの方が体力は使う気がする。
とブログのデメリットのようにも感じてしまうのだが、実はこれがブログのメリットではないかと今の自分に感じるのだ。
Twitterは手軽に、瞬間的に書けて自分を表現することが可能だ。
でも、いつも考えがまとまらず、衝動的にいつも行動し、初志貫徹なんて程遠い性格の私にはTwitterを見ると、まるで自分の意思が定まらず、二重人格かと思ってしまう。
もちろん、躁と鬱を繰り返す双極性障害になってしまったせいで、言っていることがいつもバラバラになってしまう自分には理解はしているつもりだ。
でも、Twitterで手軽に自分の気持ちを吐き出してしまうと、吐き出したきりであまりその発言を思い出すことはない。
それはそれでいいと思う人はいるのかもしれないが、私にはなんだかもったいなく思えてきた。
このブログやTwitterだって、読み手はあまり意識せずに、自分の言いたいことをダラダラと書いてはいるが、グルグルと色んなことを考えて、息詰まったり、もう降参だ!って思ったら、なぁんだこんな簡単なことだったんだ、ってびっくりするくらい陽気で呑気になったり、その目まぐるしくごちゃごちゃする感情をなんとか一つにまとめてみたくなった。
その場で感動したことを瞬時にTwitterに書けないことはなんだかとても歯がゆいことではあるが、本当に自分で感動したことならば、後になってブログを書くときでもきっと書けるはずだ。
逆に本当に苦しいことならば、今瞬時に書けなくても、後でしっかりと、感情的にならずに、客観的に、書けるような気がする。
これは本当にぼんやりとした将来なのだが、小説家や脚本家になったときに、やっぱりTwitterよりもずっとブログをやってきたときのほうが、役に立つのではないかという狙いもある。
そろそろ、長文を書くことのトレーニングをしたほうがいい。
表現力もそろそろ伸ばしてみたい。
朝起きたら、日課のように、当たり前のようにTwitterを開いてはいたが、どうしてそんなにTwitterにすがっていたのだろう。
今思えば、病気で鬱が酷かったときに、好きだった映画や音楽が全く楽しめない、今もあれは生き地獄だったなと思えるような日々が何年も続き、どういうわけか、Twitterはなんとなく毎日読めたのだ。
たぶん、鬱の自分から逃れたくてTwitterを開けば、何か答えをくれるのではないのかと思っていたのだろう。
実際に答えをくれるときもあった。
でも、今はTwitterを開いても答えをくれるばかりか、匿名なのをいいことに人の批判、平気で他人の顔をネットに載せる、「死ね」という言葉は当たり前。
昨日のブログにも書いたが、ネガティブなものには近付きたくないと思っていたから、自然とそういうものに嫌悪感とうんざりしたものを感じてしまった。
そもそも、そんな見ず知らずの他人のプライベートを知りたいか?とすら思ってしまった。好きな芸能人のアカウントならまだしも…。
これからSNSを離れたら、たぶん俗に言う情弱と言って馬鹿にされることもあるのだろう。
でもまぁ、夜の7時のNHKニュースを見ていれば、とりあえずは常識から離れた情弱にはならないとは思う。
最近の流行りや、世の中の流れを知ることも大事かもしれないけれど、情報が多すぎるのも困ったものだ。
そんな止めどない情報の中で、本当に私に必要な情報なんていくつあるのだろうか…。
たいした情報じゃないよ、そんなもの。
そんな必要か必要じゃないかよく分からない情報を追いかけているのならば、自分の文章力を高めるために読書をしたり、写文をしていたほうが、私にとってはとても有意義な時間のように感じる。
と言っておきながら、コロコロと性格が変わってしまうので、このブログを書いて舌の根も乾かないうちに、Twitterで他人を汚く罵っていたら、笑ってあげて下さいな。