がらくた

双極性障害と、本と映画と、日常と、小説ポエム書いて非日常へと。

こころ、ころころ

去年読んだ夏目漱石の明暗がなかなか面白かったので、今度は中学のとき以来に読んだこころを読んでいる。

あのときはものすごいブルーな気持ちになったのに、今は「先生、屁理屈過ぎじゃない?頑固過ぎじゃない?どんだけ悲劇のヒーローになりたいんだよ。中二病かよ」って感想の変化が我ながらおもしろい。

なにはともあれ、夏目漱石の小説は登場人物のセリフが演劇みたいで好き。

井上靖「夏花」を読んだ感想~戦争が日常だったころ

 

夏花 (集英社文庫)

夏花 (集英社文庫)

 

ネタバレしていますので、注意を。

 

この本を最初に読んだのは中学生ぐらいだった気がする。

去年も読んで、今月に入ってまた読んだ。

つまり3回も読んだので、感想を書いてみようかと思う。

 

まず9編もある短編小説の中で戦争が出てくる部分が多い。

戦争が出てこない話は4編だったので、半分は戦争が出てくるということになる。

前もこのブログに書いたが、戦争を体験した作家というのは、もちろん戦争でとてつもなく辛い経験をしたのは確かなのだが、今の戦争が出てくる小説のように、戦争反対と言っているわけではないと誰かが言っていて、妙に納得したことがある。

たぶん、この時代を生きた人たちの共通の認識が戦争であったから、当然のように物語に戦争が出てくるのであろう。

 

しかし、「しろばんば」を読んだ後だったので、「しろばんば」はとてもみずみずしく純粋な話だったのに、こちらの短編はドロドロした男女の恋愛が多く、同じ筆者が書いたのかと思うほどだった。

例えば中学生のときにはのときには分からなかった不倫の男女の心理描写が分かった自分がまた、大人になったのだなと個人的には思う。

今は不倫のドラマや不倫をやけにクローズアップさせた社会だなと感じていたが、それは別に今に始まったことではなくて、この本が刊行された1979年から人々にあった日常だったのだなということが、1985年生まれの私には少し驚かされた。

 

傍観者

読んだあと、とても不思議な気分になった物語。

男女の仲になりそうなチャンスは何度もあったはずなのに、なれずにただ見ているというだけ。

井上靖の小説はヒロインが美人な人も多いが、ワガママな女性がよく登場してくる。

これは「しろばんば」でもワガママな女性が魅力的に描かれているので、作者の好みの女性はワガママな女性なのではないかと勘繰ってみたりしてしまう。

 

夏花

幼いころの男女の純粋な思い出と大人になってそれぞれ家庭を持った今の男女が、交差していく話。

実は私はこの話がなぜか一番印象に残っていない。

ただ、感じたのは、幼いあのときの思い出は二度と帰ってはこないのだなという作者の郷愁のようなものを感じる。

 

伊那の白梅

こちらも過ぎ去った青春を憂うお話。

夏花も過ぎ去った少年少女時代を振り返る話であるはずなのに、最初に読んだ中学生時代からこの話が一番好きだった。

たぶん、駆け落ちをした男女が死へのあてもない旅というものに、中学生にしてどこか憧れを持っていたのではないかと思うと、なんだか、中学生時代から私はませていたのだと思う。

 

石の面

ともかく描写が素晴らしい。

読むと京都に行きたくなってしまう。

写文している。

 

薄氷

手紙形式で書かれた文。

こんなに長い手紙を今書く人はいるのだろうかと思いつつ、当時はここまでとはいかなくても、長い手紙を書く人はいたのかもしれないなと思った。

手紙形式で小説を書くというのも、面白いなと思った。

ただ、現代では長い手紙形式で小説を書くのはリアリティがないなと思ってしまった。

この形式に似ていて、現代で新しい何か表現方法はないかなと思った。

 

かしわんば

こちらも手紙形式の文章。

本当にかしわんばというものが和歌山にあるのか気になった。

そして、なんとなく作者の故郷である天城をどこか連想させるものだ。

実際に伊豆が舞台でもある。

作者の中で、天城とかしわんばが重なるところがあったのか、地元に住む者の興味としてある。

 

騎手

オチは、一番好きなのかもしれない。

というより、厚かましいことを言えば、私の書く小説のオチがいつもこんなものが多い気がする。

もしかしたら、結ばれるはずの2人だったが、結ばれることがなさそうな皮肉さが好き。

 

失われた時間

一瞬だけある記憶がなくなってしまった主婦の話。

やはりこの話もあまり印象にない。

もっと読み込まなければならないのだろうか。

 

暗い舞踏会

戦争の悲惨さを一番描いているのはこの作品ではないのだろうか。

他の作品もそうではあるが、戦争を知らない私たちにとっては一番リアルに感じる話かもしれない。

「生きていない方が僕はいいと思ったんだ」というセリフがとても衝撃的だった。

「命を大切にしましょう」とやかましく唱える現代に言ってやりたいものだと思った。

しかし、人の命が簡単になくなる戦時中がいかに、死というものが身近でだったなだなと思った。

捕えようによっては、生きていたくない人に読ませてみるのもどうだろうと思った。

吉村萬壱「ハリガネムシ」を読んだ感想〜エロとグロテスクがほしい人はおすすめ

 

ハリガネムシ (文春文庫)

ハリガネムシ (文春文庫)

 

 

井上靖ブームで、戦争体験した小説家にやたらと惹かれると書いたが、今回はどういうわけか、今もご存命というか、2003年に発表された作品なので、私としては珍しく最近の作家の小説を読んだ。

実は最初に、

 

幼き日のこと・青春放浪 (新潮文庫)

幼き日のこと・青春放浪 (新潮文庫)

 

 

を読んでいたのだが、あまりにもピュアな話ばかりで、アダルトチャイルドを克服するために、幼いときの私は地獄だったとはっきりと認識させられてしまったので、読んでいて辛くなったので、どこかトゲトゲした作品を読みたいと思い、新しい部屋に床から天井まで大きい本棚があって、そこには本が並べられているというよりか、本のゴミ捨て場ではないかと思うくらいに本が乱雑に置いてあったので、整理ついでに何か面白い本がないかと思って整理した。

 

たくさんある本からこの本を選んだ理由は帯にやられてしまった。

 

「無性に 酷いことがしてみたくなる……怖い。」

 

これはどうも、井上靖から180度違ったおどろおどろしいものだとワクワクして、手に取ってみた。

結果、とても面白かった。

どのくらい面白かったかというと、自分の睡眠がうまくいかないことをいいことに、朝になっても構わず読んでいたくらいで、2日で読んでしまった。

そのくらい話の続きが気になった。

 

まずは文章表現が豊か。

風景や登場人物の表情が容易に頭に思い浮かぶ。

実はこの小説はとてもドロドロしているのだが、美しい物語でこの表現力だったら、もっと文章表現の美しさが際立つと思った。

でも、ドロドロとしたものを書きたくなってしまうのが、この作家なのだろう。

本当にフィクションなのだろうか?と思ってしまうほどリアリティがあって、すごく生のものを感じてどんどん引き込まれてしまう。

 

一つ発見したのが、三島由紀夫奔馬を読んで全く自分の人生で興味がまるでなかったのに主人公の気持ちが理解できるようになったりして、こういう小説を書きたいなと思っていたが、それにもう一つ付け加えたいのが本当にフィクションなのだろうか?と思わせるような小説を書きたいなと思った。これはものすごく大きな収穫だ。

 

そして、物語の内容はぶっちぎりのエロとグロテスクさである。

芥川賞を受賞した作品のようだが、よくこの内容で取れたものだと感心し、審査員の方々が素敵だったのだなと思った。

自分の中に秘めている残虐性をよくここまで裸に曝け出したものだなと思った。

やはり小説はどこまでも自由なものだと思った。

あとは書き手である作家がどこまで自分を裸にできるものかだろう。

しかし、やはり私もこういう残虐性を孕んでいるのだろうか?

「うわぁ」と思いながらもどこか快感のようなものを覚えてしまう。

どこかで「もっと酷い目に遭わせろ」と思ってしまう自分がいる。

個人的な話だが、鬱でずっと感情が腐っていたからこそ、余計に沁みたのかもしれない。

ハリガネムシ」と「岬行」の2話が収まれているが、登場人物もみんなダメ人間どころか、ヒロインも私が読む限りはちっとも美しくない。

そして精神を大いに病んでいる。

私の嫌いな小説家はすぐに精神を病んだ登場人物がよく出ているがそれがみんな美しいからなんだか腹が立っていたが、その理由が分かった気がする。

自分が精神科の病気になっているせいかもしれないが、醜女で精神が病んでいるのが現実なのだと思う。

それが余計に私にリアリティを持たせてくれる。

 

話のオチに大きな展開はないが、これはエロとグロテスクを繰り返す過程を愉しんで読むものだと思った。

逆にピュアなものを読みたいときはこの小説はオススメしない。

また、毒なものが欲しくなったときに、この作家の他の作品を読んでみようと思った。

安岡章太郎「文士の友情-吉岡淳之介のことなど」の感想

 

文士の友情: 吉行淳之介の事など (新潮文庫)

文士の友情: 吉行淳之介の事など (新潮文庫)

 

 

中学生のころ、国語の時間で安岡章太郎の「サーカスの馬」という短編小説を読んで当時から衝撃を受けた。

国語や道徳の時間でやる物語の主人公はみな優等生だったのだが、「サーカスの馬」の僕はとても情けなくて劣等生だった。

優等生ばかりが出てくる学校の授業にうんざりしていた私は、それはとても親近感がわいた。

どうやら、私はもう、中学生時代から自分に劣等感を感じていたみたいだ。

その「サーカスの馬」の僕がサーカスにいる馬を見て、はっきりと書いてはいないのだが、私の受けた印象は、劣等生がサーカスの馬から希望をもらうといった内容だった。

ふと考えてみれば、最近少しずつ私が書き始めている小説も、塞ぎ込んでいる主人公が希望を貰うというオチになっている気がする。

 

それから、安岡章太郎の本はたくさん読んだ。

どれも主人公はみんなだらしなくて、情けなくて、どうしようもない人たちばかりなのが、なんだか慰められているようで好きだった。

今回の本は2013年1月に亡くなってしまった安岡章太郎の未発表のエッセイが載っている遺作だと思っている。

 

まず、このブログにも書いてある通り、鬱にずっとなってしまっていて、なかなか内容に集中できなかった部分がある。

特に対談のページは、戦争を体験した者ではないと分かり合えない内容でかなり読み辛かった。

しかし、前半のエッセイは、以前ブログにも書いたように、勝手に私は共感をしてしまった。

 

mongumi.hatenadiary.jp

 

 

戦争中と平和な現在は、結局、何も変わっていないのだなと思った。

また、安岡章太郎の口ぐせは「ああ、死にたいな」だったらしい。

これは現代でも、Twitterを見るとよく見かける。

結局、日本人は死にたい民族なのではないのかと思う。

どんな時代であれ、どんな状況であっても、どこかで死を求めているのではないのかと思う。

それを否定する風潮ではあるが、それを受け入れていいのだなと思う。

私は双極性障害で、何度も死にたいなと思ったことがあるのだが、それも正しいのだと思う。

そんなことを他人に言ってしまうと、たちまち否定されてしまうが、たぶん、そういう民族なのだから、死を求めているのが当然なのかもしれない。

もちろん、それは今の言葉で言うなら「死ぬ死ぬ詐欺」と言われているもので、実際に行動を移すかどうかは別のものではあるが…。

 

そして、安岡章太郎は70歳を目前にカトリック教徒になった。

そのことについての対談もあった。

神をいつのまにか私は信じなくなってしまった。

神がいるならば、双極性障害でこんなに人生がめちゃくちゃになることなんてなかったのにと思うようになってしまったからだ。

しかし、安岡章太郎は、戦争で悲惨な体験をしている。

きっと目をつぶりたくなるような景色を見てきたと思う。

きっと、神なんていないだろうと思ったにちがいない。

でも、神を求めている。

祈ることは、どういう意味なのだろうかと考えてしまう。

祈ることは「幸せにしてください」という意味ではないのかもしれない。

特に何の意味もなく、祈るという行為だけで、どこか意味があるのかもしれない。

 

そして、こんなことを書くと私のマヌケさが露呈されてしまうのだが、安岡章太郎は自分が劣等生と称してはいるが、やはり考えていることは鋭いなと思った。とても頭の良い人なのだと思った。

それなのに、いつも出てくる登場人物はどこか情けなくて、惨めで、どうしようもない。

でも、劣等生たちの気持ちを代弁してくれる表現や文章能力があるからこそ、やはり頭が良いのだなと思ってしまう。

父親に小説を書きたいと言ったら、「頭が良くないとできないものだぞ」と言われたことを思い出す。

 

久しぶりに「サーカスの馬」を読みたくなった。

爆笑問題30周年ライブ「O2-T1」が難解過ぎたので、自分なりに解釈してみる。

 

 

 

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私の一番好きなお笑い芸人の爆笑問題の30周年ライブが昨日の深夜にテレビで放送された。

 

演劇を少しかじった身としては、生で観るのが一番楽しいに決まっているのだが、そのときはお金がなかったのか、体調が良くなかったのか、よく思い出せないが、ともかく観ることができなかった。

ライブが終わってTwitterで観た人の感想を読んでいたら、とても面白かったらしく、やはり行けば良かったと後悔した。

また、Twitterには、テレビやDVDにするのも難しいと思われるネタがあったらしく、観ることができないのではないかと諦めていたので、テレビ放送はとても嬉しく、前日の夜からとてもドキドキしていた。

 

上の画像がその30周年ライブのポスターなのだが、私は中学生の頃から爆笑問題のファンで、もう20年も爆笑問題が好きということになる。

爆笑問題が好きになったきっかけは漫才を観てからだったので、まさかこのライブで漫才は一切せずにコントをやるとは夢にも思わなかった。

もし、生で観に行っていたら、漫才をしなかったことに戸惑いそうな自分がいたので、後でオールコントという情報を知って良かったのかもしれない。

 

そういえば、実は爆笑問題は最初、ウッチャンナンチャンとコント番組をしていたというのを聞いたことがある。

ウッチャンナンチャンのコントのうまさに、爆笑問題は敵わないと思って、ネタ見せを漫才に変えたという話を聞いた。

しかし、爆笑問題のコントも面白くて好きだ。

YouTubeで見たことがあるが、私には漫才のようにゲラゲラ笑うという感じではなかったが、それでもなんだかクスリとしてしまう部分があって、それはそれで好きだ。


爆笑問題 コント「東京の不動産屋」今は見れなくなった貴重なデビュー当時の爆笑問題のコント!昔から太田光のキャラって爆発してる感じがするわw鳥取と島根はひとつの県とみなすってw相互チ

 

このコントは都会の人が田舎者を馬鹿にする感じや、今だったら南青山の児相問題を思い出す。

 

とまぁ、こういった雰囲気のコントがたくさん展開されるのだろうと思って、昨夜観ていたのだが、感想はと言うと、

 

そう、全く訳が分からないものだった。

コントというと、あるシチュエーションで一人がひたすらボケて、もう一人がツッコむと言ったものだと思っていたが、これももちろんこのスタイルだったのだが、コントが5つあって、全部が私の印象としては太田さんがそこまでボケていなくて、むしろ、謎めいたことをたくさん言っていて、それに翻弄される田中さんといった絵図だった。

私の中でコントは何も考えずにただ笑えるものだったのに、太田さんの謎めいた発言ばかりが気になってしまい、これはコントではなく、演劇なのではないかと思ってしまった。

とは言っても、演劇の大学を出たとは言っておきながら、コントと演劇の違いを説明しろと言われても、誰もが納得できる説明はできないのだが、難解すぎる内容を少し自分なりに解釈してみようと思った。

 

以下ネタバレ含みます。

 

 

 

①病院の待合室

病院の待合室の風景かと思ったら、実は病院をコンセプトにした風俗店の待合室だったというオチ。

太田さんが「ここは風俗店の待合室だろ!」と指摘されたときの田中さんの否定した感じが、田中さん本人は、本当にここは病院だと思って来たんだという演技に見えた。

風俗店に来てしまった恥ずかしさで否定しているのか、本当に知らなくて来てしまったのか、よく判断がつかなかった。

ここはもう一度ちゃんと観てみたい部分だなと思った。

実は後者だったとしても、国が一番馬鹿なDNAを探しているので、説明が実はついてしまう。

で、未だに分からなかったのが、太田さんのスマホに時々掛かってくる電話の相手。

その相手はタイムスリップしているらしく、平成の元号が変わったときにいたり、地下鉄サリン事件のときにいたり、9.11のときにいたりしている。かと思えば、15代目J soul Brothersが現れたりして、どうやら未来にもいるらしい。

電話の相手が今、こういう状況だと説明しても、太田さんは驚く様子もなく「ほう、そうか。気をつけてな」と言って電話を切る。

太田さんは別に驚く様子もなく、淡々としている。

でも、電話の相手はどこか、過去に起きた事件のことは初めて遭ったといった雰囲気に感じる。

むしろ、このコントの設定が現代ではないのかもと疑ったが、太田さんはスマホを持っているので、現代かそれより先の未来の設定ということになる。

この電話は実はコント自体がタイムスリップしているので、それを暗示させるような効果を狙ったのかもしれないが、結局、電話の相手は誰で、どうして太田さんにそんな電話をするのか、種明かしはされないままだった。

 

②数字男

実は人間の廃棄処理場へ向かうロケットの中だったというオチ。

後々になれば、ここでどうして田中さんは廃棄処理されなければならないのかということを観客に考えさせるようにできていた。(私は観ていたこの時点で内容を追い掛けるだけで精いっぱいだったので、気付かなかった)

そして、最後の爆チュー問題までの4つのコントは、実は太田さんは同一人物だったのだが、このコントも同一人物だったのかがよく私には分からなかった。ここももう一度見たい。

田中さんの賭け麻雀ネタとか、爆笑問題カーボーイというラジオを聞いていて、よくそれをネタにしていたから、笑えたが、そのネタを知らないと意味が分からない人がいるのではないかと思った。

 

③二人の兵士

太田上田という番組で太田さんが「未来の人間から見て、今の時代の人間が一番インターネットの使い方が野蛮だったって言われる時代が来ると思う」と発言したのを思い出したコントだった。

結局、二人の兵士が戦っていたのは、インターネットでの匿名での醜い罵り合い、炎上だった。

最後の爆チュー問題のコントで人間が滅亡したという話になるが、その滅亡した理由がこれだったのだと思う。

戦争ではなくて、匿名のインターネットでの殺し合いで人間は滅亡するかもしれないという、少し面白いメッセージを感じた。

そして、田中さんは戦場までの記憶がなくなっている。

この理由もはっきりと分からなかった。

誰かに記憶を消されてしまったのか、それとも馬鹿な遺伝子の持ち主だから忘れてしまっているのか。

このコントが一番、色々なことを説明してくれた。

田中さんが①のコントのことを思い出したり、太田さんがセリフで「あのときマスクを外さなければ」「俺の中に小さなお前がいる」と聞いたときは何を言っているのか全く分からなかったが、全ての伏線を回収しようとしていたセリフだったのだなと納得。

 

④医者と患者

国が生物兵器を作ろうとしていた。

その生物兵器とは、感染した人間は全て、何も考えない馬鹿にさせようというものだった。

それを作るには実際にいる馬鹿な人間の遺伝子が必要で、その馬鹿な遺伝子に田中さんが使われたということが分かる。

とここまで解釈できたのに、一晩も掛かってしまった。

そして、何も考えないということが一番恐ろしいことなんだというメッセージが、なんだか太田さんらしいなと思った。

そして、太田さんはその生物兵器に感染される。

遺伝子は田中さんの遺伝子なので、田中さんが発言しそうなことを言う。どうやらこれが感染が始まったサインらしい。そしてふと我に返り、「だめだ。感染が始まっている。しっかりしなきゃ」と言うも、また田中さんになってしまう。田中さんになったり、ふと我に帰ったりする演技が、観ているこっちとしてはとても面白いし、冷静に見れば相方のモノマネをしているだけでくだらないのだが、なぜだかそこに熱演というか、バカバカしいはずなのに演技に釘付けになってしまった。

 

時系列をまとめる

最後が爆チュー問題なのだが、その感想を書く前にこの4つのコントの時系列を考えたい。

やはり私は前もって全てのコントが、繋がっていると聞いていたので、その知識があったのにも関わらず、観終わったあと、なんとなく繋がっているのは分かったが、どう繋がっているのかがはっきりと分からなかった。

で、色々と考えたのが、この4つのコントの時系列がバラバラだったということに気付いた。

起こった順に並べるならば、

①で田中さんのDNAを採取される。

④で生物兵器がバラ撒かれる。

③で生物兵器に感染された人間による戦争

生物兵器の元になった田中さんを廃棄処理する

これに気付くのにもだいぶ考え込み、時間が掛かった。

実は②の最後に田中さんが踊り出すという時間があるが太田さんは後にラジオで「衣装を変えるために長い暗転が嫌だったから入れた」と言っていたが、時系列をバラバラにしたのは、長い暗転を避けるためにやったものなのか、それとも別の意図があったのか、これもまた謎である。

時系列通りにやったほうが、観ているほうはもっと物語の繋がりが瞬時に分かるのにとも思うが、実は統一性のないコントが全て繋がっていたと簡単に分かってしまうのを避けたかったのかもしれないと考えている。

 

爆チュー問題

ポンキッキーズでやっていたのをリアルタイムで観ていたので、また観れるのはとても嬉しかった。

ポンキッキーズでやっていたのは、子ども向けだったので、ネズミのたなチューが人間の物を拾ってきて、これはどう使うのだろうとあれこれと考えるコントだったのだが、そういう色は完全に消していた。

どうやら、生物兵器の実験台として、田中さんの遺伝子を注射されてしまったたなチューが、実験場から逃げ出してしまう途中に、人間に感染させてしまったという、全てのコントの始まりだった。

しかし、家に戻ってきたたなチューが会ったぴかりと思われる人物は、どうやらぴかりの子孫だった。

どうやらたなチューはタイムスリップしてしまったらしい。

なぜ、たなチューはタイムスリップしてしまったのかやはり分からないので、もう一度観たい部分だと思う。

そして、「でたらめな歌」を歌い、うる覚えなのだが、ぴかりは「でたらめなんだよ」もしくは「でたらめでいいんだよ」と言って、全てのコントは終わる。

人間はでたらめだという強いメッセージ性を感じる。

 

 

まとめて気付いたのは発想の自由さに圧巻

とここまで書いて思うのが、ただ笑っているだけでいいコントと思って観てしまうと、実はよくできた演劇なのではないかと錯覚してしまう。

シュチュエーションも全てバラバラなものをよく全部繋げ、観ている人の想像を頭をフルに働かせるようにしなければ、全く何が起きているのか分からない。

太田さんの空想力や発想力、この人の頭の中はどうなっているのかととても思い知らされたものだと思った。

爆笑問題はよく時事ネタを漫才に扱っているが、以前太田さんは別に漫才を通してメッセージ性なんてないとは言ってはいたが、このコントも果たしてそうなのだろうか?

メッセージ性はなく、ただ自分の空想を広げたかっただけなのだろうか?

このコントを観て、なんとなく万人が絶賛するものではない気がしてきた。

それはファン歴20年の私ですら、観た後に全く理解できない部分があった「分かりにくさ」の点で万人に受けるものではない気がしてきた。

ただ、私は熱狂的な爆笑問題のファンなので、その分かりにくさを自分なりに分析したりするのが好きで、自分なりの結論を出したときに太田さんの頭の中の凄さに感動すら覚えてしまうである。

本当に自由な発想を持っていてうらやましい。

 

そして、私もこんな脚本を書けないものだろうかと考えてしまう。

何物にも縛られない私の自由な発想の、脚本を書きたいものだ。