がらくた

双極性障害と、本と映画と、日常と、小説ポエム書いて非日常へと。

私は山の子

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中学生のときは海が好きだった。

もちろん今も海は好きだ。

ただ、私の実家は中伊豆とあたるところで、山々に囲まれていて、そこに狩野川が流れている。

山々に囲まれた自分の実家、故郷がなんだか好きではなかった。

中学生のときの私は山々はなんだかとても閉鎖的で、どこか暗いイメージがあった。

それに比べて海は、どこまでも開けている。

どこまでも、どこまでも続いている。

無限に広がる景色がなぜだか、自分の可能性のようにも感じた。

波音も好きだ。

水の音は昔からどこか癒されるし、波音は母体の中にいるような気がした。

海の色、あの水色も好きだった。

青にもたくさんの種類があるが、海の色の優しいクリームと含んだ色が好きだ。

あとは、あのときサザンに本当に熱が入っていて、サザンの歌の舞台はいつも海だった。

海はどこか男女の出会いがあって、おしゃれな場所であると中学生のときの私は思った。

山で男女の出会いがあるなんて歌は聞いたことがないから、やはり同じ田舎でも、山よりも海の方がうらやましいと思っていたりした。

 

しかし、私は実家から10数キロ離れた場所で一人暮らしをはじめた。

そして、そこも田舎なのであろうが、実家よりはほんの少し都会と言った場所に住み始めた。

色々傷付き、ぼろぼろのまま、父親に連れられて帰ってきた実家。

そこは12月の始めで、山々が赤い焰のような塊を静かに咲かせていた。

その山々のふもとには、空の青さを反映した鏡のようにきらきらと、冬の低い陽を照らしていた。

山も悪くないなと思った。

故郷は、やはりどんな場所であろうと、落ち着くものだと思った。

海に憧れた中学生時代だが、結局、私は山の子だったのだなと思った。

 

最近、夢中になっている井上靖も、「しろばんば」や「夏草冬濤」を読んで、井上靖は自分が山々と狩野川に育てられたことを誇りに思っていたことをとても感じた。

どんな場所でも、自分がほっとする場所で、誇りに思う場所が故郷である。

 

そういえば、こんなこともあった。

私は去年ぐらいから、夏が終わると陽が早く沈むことにすごく寂しくてとても嫌な気持ちになっていた。

秋なんて嫌いとすら思っていた。

今年もやはりその気持ちは襲ってきていて、お昼の3時ぐらいから毎日のように憂鬱が襲ってきた。

ところが、昨日、父親と歩いてスーパーまで明日の食材を買いに行った。

時刻は夕方の4時半だった。

山のふもとのお寺の鐘が何度も鳴り響き、その鐘の響きにどこか厳粛な気持ちにさせる。

ふと西の方を見ると、濃いブルーのインクを流したような夕刻にしか見れない独特な蒼い空と、真っ黒な山々がどっしりと寝っ転がっていて、どこを見ても空は優しい茜色に包まれていた。

夕焼けが綺麗だなと思った。

そうか、そういえば、海に憧れていたはずの中学生時代もこの景色がとても好きだったことを思い出した。

あの頃は、部活が早く終わる時期で、下校時になると必ずこの景色が見れて、秋から冬がとても好きだったことを思い出した。

何度も書くが、一人暮らしの家は、実家からさほど遠い距離にあるわけではないのに、こんなに感じるものが違うとは思いもしなかった。

 

山々に囲まれて、狩野川がある夕焼けが一番好きな夕焼けだと思った。

しかも、それはもう中学生時代から気付いていたのかもしれない。

気がつくと、私は陽が早く沈む季節に憂鬱を感じなくなっていた。